【日刊スポーツ×パ・リーグインサイト Vol.2】パシフィック・リーグ初めての公式戦

2020-06-09 18:00 「パ・リーグ インサイト」吉田貴

 パ・リーグ創設70周年を記念してお送りする特別企画。日刊スポーツよりご提供いただいた紙面を参考に、全10回で当時のパ・リーグを振り返る。また、野球殿堂博物館の井上裕太学芸員より当時についての詳細な解説もいただいた。

第1回「パシフィック・リーグの創設」

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1950年3月11日、パ・リーグ開幕

 プロ野球再編問題という難局を乗り越えた末に誕生した太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)。第2回では、初年度における開幕戦、つまりパ・リーグとって初の公式戦について見ていきたい。

 記念すべき一戦の舞台は兵庫県・西宮球場。13時14分に開始された西鉄(現・埼玉西武)対毎日(現・千葉ロッテ)のカードによって、その後70年の歴史を刻むパ・リーグがついに開幕した。

 紙面上でその様子が「バッティング・シャワー」と形容されるように、試合は毎日打線が攻勢に出る展開となった。西鉄の先発・木下投手に対して、初回から毎日の4番・戸倉勝城選手が「パ・リーグ第1号」となる2ランを放って先制。ちなみに、この一発の飛距離は右翼310フィートだったとされている。現在のメートル表記では約94.5メートルだ。

 これで勢いに乗った毎日打線は中盤3イニングで計7点を加える猛攻を見せ、一気にリードを9点に拡大する。毎日の先発マウンドに上がった榎原好投手は、西鉄打線を5安打1失点に抑える好投。試合は9対1で毎日が快勝するかたちで幕を下ろした。

 セ・リーグは前日の3月10日に開幕しており、1日遅れの開幕となったパ・リーグ。実はこの西鉄対毎日の後には、南海対阪急の第2試合が実施されている。各球団がそれぞれの本拠地球場で試合をするフランチャイズ制は1952年からの導入であったためだ。こちらは13安打を放った南海が10対4で勝利している。

野球殿堂博物館・井上学芸員の解説その1 記事の文章に見えた特徴とは

 野球殿堂博物館の学芸員である井上裕太さんにまず質問したのは、「水爆打線」という表現についてだ。このインパクトのある比喩は、現在では1950年のセ・リーグ優勝チームである松竹ロビンスの強力打線の異名として知られている。今日では、埼玉西武の「獅子おどし打線」などさまざまな愛称が生まれているが、その最古級のものと言えるだろう。

「開幕の時点では松竹に限らず猛攻のことを”水爆”と表現していたようですね。当時は(アメリカで)水爆の開発を行っていたので、そうしたことが背景にあったと言えます」

 さらに、先述したような「バッティング・シャワー」やホームランを「ホーマー」と記述している。「パ・リーグインサイト」の試合戦評と見比べても、紙面上の試合展開の描写について現在と異なる部分が見られる。

「今だと試合の一番の鍵になったところをクローズアップすると思うのですが、これは試合展開まで細かく載っているなと思いますね。試合状況の比喩などから、記者の興奮度合いも伝わってきます」

 同じ野球というスポーツでも、70年前の記事と、現代の記事では情報の送り手と受け手が大きく変化しており、どちらが優れているかは決めることができない。「70年後の世界」の視点からはどのような違いが見出せるだろうか。

野球殿堂博物館・井上学芸員の解説その2 70年前は1試合「1時間45分」が平均だった!

 続いて話題は開幕戦の試合内容へ。まず井上さんが指摘したのは「試合時間」の違いだ。パ・リーグの2019年シーズンの平均試合時間は3時間18分(9回試合のみ)である。一方で、70年前のパ・リーグの平均試合時間は1時間45分だったとのことだ。

 紙面で取り上げている西鉄対毎日の試合時間は1時間43分、第2試合の南海対阪急は2時間5分。いずれも現在から比べれば1時間以上も短いが、その背景にはどのような要因があるのだろうか。

「当時は2時間を超える試合でも長い方かもしれない。テンポよくプレーしていたんだと思いますね。現在はピッチャーが投げて、キャッチャーが返球したら(次の投球まで)少し間を置いていますが、当時はまたすぐに始めていたと考えられます。イメージとしては高校野球に近いですね」

 確かに、現在ではバッテリー間やベンチとのサイン交換などによって、投球ごとに一定の間隔が生まれている。近年は、選手も積極的に試合時間の短縮に努めている様子も見られる。ただ、試合時間の延長は、70年の間に打者と投手の駆け引きがより高度なものになった証拠であるとも言えるかもしれない。

野球殿堂博物館・井上学芸員の解説その3 強力毎日打線のヒミツとは

 そして気になるのは、今から70年前の「レジェンド」についてである。この試合で9得点を記録してチームを大勝に導いた毎日の野手陣に注目する。井上さんによれば、プロ野球再編という大きな混乱の中で、引き抜きが横行し、移籍を決断する選手もいたとのことである。例えば、この1950年に、松竹ロビンスの岩本義行選手とともに、プロ野球史上初のトリプルスリーを達成した毎日・別当薫選手などだ。

「毎日の主要な選手には、別当さんの他にも、若林忠志監督をはじめ、1番打者の呉昌征選手、2番の本堂保次選手、5番の土井垣武選手など、多くの選手らが阪神(当時は、大阪タイガース)から移籍したんですよ。1940年代後半のタイガース打線は”ダイナマイト打線”と呼ばれていました。アマチュアでも有力な選手を獲得していて、かなり戦力は充実していたようですね」

 こうした移籍の背景には、プロ野球再編の際に毎日が新加入チームの筆頭に上がっていたように、強力なバックアップが存在していたことも挙げられるとのこと。実際のところ、毎日は戦力補強に苦心する他の新規加盟チームとは一線を画す強さを誇っており、81勝34敗5分、勝率.704の圧倒的な成績でリーグ優勝、そして日本シリーズの初代王者にも輝いている。

 こうしてパ・リーグの熱戦はスタートを切った。第3回以降では1950年シーズンの印象的な試合についてピックアップしていく予定だ。もちろん、本記事で触れた以外の点でも、紙面上からはさまざまな情報を得ることができる。一つの歴史資料として、ぜひとも紙面の細かい部分にも注目してもらいたい。

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