【We Are Pacific! 外国人OB選手インタビュー】タフィ・ローズさん
レジェンド選手が語る、日本球界No.1プレイヤーは?

2020-07-13 17:00 「パ・リーグ インサイト」編集部

 ついにと言うべきか、やっとと言うべきか。
 過去4回にわたって連載してきた外国人OB選手インタビュー。第5回はNPB史上最もインパクトを残した外国人選手と言っても過言ではないOB、タフィ・ローズさんのインタビューをお届けする。

 1996年に来日し、13年間のNPB生活で残した本塁打数464本は、今なお外国人選手として歴代1位。4度の本塁打王を獲得し、外国人選手では初となる1000打点の記録を達成(通算1269打点)、そしてNPB歴代最多となる14回の退場処分と、まさに記録にも記憶にも残る選手だった。

 そんな“猛牛”のイメージから一転。この日朗らかな笑顔で終始楽しそうに、日本語を交えつつ答えてくれたタフィ・ローズさん。彼の現在の様子はぜひ動画でもご覧いただきたい。

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「梨田さんは本当に素晴らしい指導者でした」

ーーまず、なんとお呼びしたらよろしいでしょうか? タフィ? それともカール(本名)?

タフィでいいですよ。

ーーわかりました、タフィさん。現在はどちらで暮らしていて、何をなさっていますか?

現在はオハイオ州・シンシナティとアリゾナに住んでいます。今は何もしていないですよ(笑)

ーー日本にいる多くのファンはホームランバッターとしてのイメージが強いですが、バファローズでの最初の3年間は2桁盗塁と20ホームラン以上をマークしていました。そして4年目のシーズンに40本のホームランを記録しています。このプレースタイルの変化について教えてください。

トレーニングをして身体を大きくしたのです。より強くなるために。そして、多くの和牛を食べたからですかね。神戸牛とか。最高ですよね、ハハハハ! やはり、年を重ねるにつれ身体を大きく、そして強くしていったからだと思います。

ーー2000年から2003年まで、梨田昌孝監督(当時)とプレーをされていました。そして2001年には素晴らしいシーズンを過ごし、パ・リーグチャンピオンになっています。梨田さんとのエピソードはありますか?

佐々木(恭介)さんが最初の監督でしたね。そして梨田さんですが、彼は理解力に富み、選手一人一人をよく気にかけてくれた、本当に素晴らしい指導者でした。彼はとても勤勉で、そして忍耐強かったと思います。選手に余計なプレッシャーをかけず、我々選手たちはいい環境でプレーすることができました。

ーー梨田さんは新型コロナウイルスに罹り、一時危険な状態でした。ご存知でしたか?

はい、知っていました。もちろんです。

ーー今は回復されていますが、コメントをいただくことはできますか?

梨田さんは私が所属していたチームの偉大な監督です。彼の元でプレーするのが大好きでした。現在は回復されているということで本当に良かったです。

あのバッティングフォームはどう生まれたか?

ーー次はバッティングフォームについてお尋ねします。日本にいる多くのファンがタフィさんのフォームを真似したかと思いますが、ホームランに加えて、高打率を残せた理由は何でしょうか?

まず第一に、私はアベレージヒッターであろうとしていました。それに加えて強く、高打率を残せてホームランを打てるよう意識していました。2ボール2ストライクまでは、スイングをコンパクトにし、アベレージヒッターとして、ボールへのコンタクトを意識していましたね。経験を重ねて日本にいる多くの投手と対戦していくにつれて、大きなスイングでホームランを狙うようになりました。ホームランを狙う時、そして安打を狙う時とを分けていた感じです。

ーーバットを大きく揺らすフォームへはどうやって行き着いたのですか?

以前はグリップの手と身体が近すぎたので、意識的に体から離すようにしたのです。その結果、内側へのストレートを打てるようになり、強くボールを打てるようになりました。なので、理由としては、体からグリップを離し内側のストレートに対応するためですかね。これが人生を変えましたよ。

2001年、近鉄バファローズ優勝の思い出

ーーNPBで1269打点、464本塁打を記録し、外国人選手歴代最多のホームラン数です。ご自身の残した記録についてはどう考えていますか?

日本では素晴らしいキャリアを過ごせたと思っています。とても幸せなことです。ただ、一つ心残りがあったとするならば、どうしても日本一になりたかったです。日本でのキャリアは最高でしたが、日本シリーズで勝ちたかったです。

ーー2001年の近鉄バファローズ優勝の瞬間はとてもドラマチックだったと思います、北川博敏氏の代打逆転サヨナラ満塁ホームランは多くのファンの記憶に残っていると思います。その時のことは覚えていますか?

もちろんです! あの試合は、私がファーストゴロで1アウトになり、そしてノリ(中村紀洋氏)もアウトになり、そのあとたしか、礒部、水口、吉岡が塁に出たんです*。

私とノリはベンチにいたのですが、北川がホームランを打った瞬間「なんて最高なんだ!」と思いましたね。信じられませんでした。本当に最高の瞬間でした。

*編集部注:正しくは、吉岡雄二氏、川口憲史氏、益田大介氏

ーーその時の記憶があまりにも強すぎて、あなたは日本一の経験があるのかと思っていました。

日本一には本当になりたかったです。日本でのキャリアは本当に素晴らしいものでした。退場行為も多かったですが(笑)。本当に私は勝利を求めていたんです。勝利のためにはなんでもするつもりでいました。アメリカではあまりこういう表現はないかと思うのですが、なんとかしたいと思っていました。勝つ、勝つ、勝つ、その思いを強く持っていました。

ーー正直申し上げて、その(退場の)話には触れないほうがいいのかと思っていました。

そんなことないですよ、大丈夫です(笑)

ーー審判の方々へなど、何かコメントはありますか?

う〜んと、まぁすべてが完璧な人なんていないですよね。でも、当時は私の考えているストライクゾーンとちょっと違うかなと思ったことはありました。彼らは私の背が高いと思っていたようですが、私の身長は182cmで、そんなに高くはありません、普通のサイズですよ。ハハハハ!

勝利に貢献できるようにと私は常に思っていました。その思いが強すぎて、時には退場に繋がってしまいました。ただチームメイトは理解してくれていました、私が常に全力でプレーしていることをね。

忘れがたい近鉄戦士たちとの交友

ーー先ほど、バファローズ時代のチームメイトに言及されていました、水口氏、吉岡氏、中村紀氏、彼らとのエピソードなどを教えてください。

私とノリはとても親交が深かったですね、彼はチーム内で一番の親友でした。親しかったのは、ノリ、吉岡、礒部、大村(直之)、水口、いつも一緒にご飯を食べにいっていましたね。日曜日や移動日、いつも一緒でした。まるで家族のような関係だったと思います。

ーーそれが、チームの結束につながっていたのですね。

そうですね。彼らは全員私より若かったです、私が日本で最初の年は確か28歳で、ノリ、大村は20、21歳くらいでした。彼らは私に日本語を教えてくれました。毎日毎日、「通訳いらない、君に通訳なんて必要ないだろ」とばかりに日本語で話しかけてくれたんです。おかげで3シーズン目には、だいぶ上達しましたよ。

大阪での日々は私の人生を変えました。最初に近鉄バファローズでプレーできたことは、恵まれていたと感じています。

なぜなら、最初は日本の“野球”にどうやって順応していけばいいのかわかりませんでしたが、でもバファローズは辛抱強く私を使ってくれました。来日して最初の3カ月ほど、4月から6月までたしか打率は.250くらい。7月になってようやく日本の野球に順応できるようになってそこから一変しましたね。ほかの球団では、辛抱強く私を起用するのは難しかったのではと思います。

ーーバファローズに所属していた時は大阪に住んでいたかと思いますが、大阪での生活のことなどエピソードをお聞かせください。

最初の2年間は阿倍野に住んでいました。近鉄デパートのその辺。大阪での生活を楽しんでいましたね。最高でした。ノリと吉岡とよく一緒に心斎橋へ行きましたし、本当に楽しかったです。大阪は素晴らしい街で大好きです。

大阪での思い出といえば、焼き鳥、すき焼き、しゃぶしゃぶ。そして相撲、大阪城が好きでした。2015年に富山にいた際に一度だけ祭りに行ったのですが、それも良かったですね。

大阪の人たちは日本語でなく、関西弁を話しますよね。それが私にとってとても心地のいいものだったんです。大阪の人々は東京などに比べてとてもフランクだったので、私には合っていました。大阪で電車に乗ると車内のあちこちから話し声が聞こえてきますが、東京で電車に乗ると本当に静かですよね。誰も喋っていません(笑)。私は大阪のその雰囲気が大好きでしたね、居心地がいいと感じました。

「ヨッシャー」は好きな日本語です。私が知っているほかの大阪弁は「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」あとは「もうええっちゅーねん」ね! 練習時のランニングで梨田さんが「ラスト!」と言うんですが、私は「もうええっちゅーねん」と思ったものです。そのやりとりをよく覚えていますよ(笑)

日本語は、テレビCMを見て覚えていました。あとは、『ミナミの帝王』(かつて関西テレビでやっていたドラマ)ですね。よく見ていましたよ。でも、内容を理解するのがとても難しかった。作中で「アニキ」という単語が出てきて、「あぁ、これは兄弟という意味なのか!」と思ったものです。あとは、「よーっ、さかい、やすいー、仕事きっちり(『引越しのサカイ』のCMフレーズ)」も覚えています。

タフィが慕うNo.1選手

ーーたくさんの日本人選手とチームメイトになったり、あるいは対戦されたかと思いますが、偉大だと感じた選手たちを挙げていただけますか?

イチローさんがNo.1ですね。順位をつけるとするなら、彼がベスト。イチローさんの肩、足、バッティング、すべてが突出していました。ノリ、そして、清原さんが同率2位ですね。彼らは本当に親しい友人でした。

ほかにもいい選手はたくさんいました。伊良部(秀樹)さん、松井稼頭央さん……ちょっと待って! 考えさせてください。これはとてもいい質問ですね(笑)。あぁ! 秋山(幸二)さんもすごかったですね。工藤(公康)さんも素晴らしい選手でした。西武とダイエーホークスにいましたよね。

う〜ん、本当にたくさんいい選手がいましたね、ダイエーホークスの1塁手の小久保さん!  一緒のチームでプレーしたこともありました。私が来た最初の年は交流戦がまだなかったのですが、広島の前田(智徳)さん、横浜でショートを守っていた石井(琢朗)さん、横浜にいたローズ(ロバート・ローズ)、広島の野村(謙二郎)さん。私は彼らをアメリカでもすぐに通用する選手と呼んでいました。「イージープレイ イン アメリカ」とね。ジャイアンツの高橋(由伸)さんもいい選手でしたね、あとヤクルトスワローズの岩村(明憲)さん。

ただやっぱり、1番を決めるならイチローさんですね。彼が私の中でのベストです。ベストナイン、MVP、打点王、HR王。でも首位打者だけは取れなかったんです。イチローさんが毎年.360くらい打つんですから。だから自分に言い聞かせていましたよ、イチローさんが今年もきっと首位打者だろうと。だから私はホームランと打点で勝つんだという思いでいました。

でも、日本の野球史上最も偉大な選手を挙げるのであれば、それは王さんですね。彼が成し遂げた記録は偉大です。

ーー王さんのサインボールを持っているのだとか。

3つも持っていますよ。ぜひお見せしたかったです。オハイオの自宅に飾ってあるんですよ。私が着たユニフォームもすべて飾ってます。巨人、オリックス、近鉄、すべてあります。ヘルメットやベースボールカード、バット、それにトロフィー。あぁ、お見せしたかったです!

ーーそれは見たかったです! さぁこれが最後の質問になります。タフィさんは日本球界で素晴らしい功績を残してきました。ですが名球会入りの条件をクリアしていない。それでもタフィさんを名球会へ推薦する声も多くありますが、その点についてはどうお考えですか?

もちろん、名球会に入りたいとは思っています。とても名誉なことですからね。

私が達成することができた記録を振り返ってみると、打率、HR数、打点数、あとは得点数も1000を超す数字を残すことができました。とても素晴らしい経験をすることができ、私の人生を変えてくれました。日本球界に関わるすべてに感謝をしています。

名球会に入れたらとは思いますが、それは私が決めることではないですしね、しょうがない。もちろん選ばれることは大変名誉なことだと思っています。でも、日本球界でキャリアを過ごせたことは私の人生の中で本当に幸せな時間でした。

タフィ・ローズさんからのメッセージ

日本の野球ファンのみなさま、13年間本当にありがとうございました。
日本でプレーできたことは、私の人生を変えてくれました。
私の人生の中でも本当に最高な時間でした。

(日本語で)
日本は13年間、本当にありがとうございました。
日本が寂しかったです。がんばります。めっちゃがんばるわ!

取材協力・日本プロ野球外国人選手OB会
インタビュー・高木隆 文・海老原悠

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