【日刊スポーツ×パ・リーグインサイト Vol.3】パ・リーグ、今も破られない70年前の記録とは?

2020-07-20 18:00 「パ・リーグ インサイト」吉田貴

 パ・リーグ創設70周年を記念してお送りする特別企画。日刊スポーツよりご提供いただいた紙面を参考に、全10回で当時のパ・リーグを振り返る。また、野球殿堂博物館の井上裕太学芸員より当時についての詳細な解説もいただいた。

 1950年3月11日、西鉄(現・埼玉西武)対毎日(現・千葉ロッテ)の組み合わせで開幕した太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)。第3回ではリーグ初年度における印象的な試合について取り上げたい。

スマートフォンからはクリックして拡大表示 (C)日刊スポーツ

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両チーム合計最多得点のNPB新記録。現在も破られないその点数は……?

 開幕して間もない1950年3月16日、名古屋でのダブルヘッダーの第1試合として行われた西鉄と東急の一戦は、21対14で西鉄が快勝した。両軍合わせて35得点という数字は、現在でも更新されていない歴代最多の記録だ。ちなみに、第2回の記事で試合時間の短さについて触れたが、この試合も大量得点でありながらも2時間13分で終了している。

 詳しくは紙面に目を通してもらいたいが、試合内容について簡単に触れておきたい。注目したいのは試合序盤の西鉄打線の爆発ぶりだ。3回、東急の先発・浜田宏投手から4安打を放ち降板させると、続く2番手の米川泰夫投手から3本塁打を放って一挙9点。試合の主導権を握り、終わってみれば計21点の大量得点での大勝となった。後身である埼玉西武も強力打線で知られているが、こちらも凄まじい攻撃を見せていたことがわかる。

 一方の東急は4回に与えた1本塁打6四球による5失点が響き、6回に5点、8回に7点を返す驚異的な追い上げを見せたものの、点差を縮めきることはできず。ただ、こうした猛追が、結果として1940年の阪急と南海の一戦(32対2)を上回る1試合両チーム合計最多得点に結びついたと言えよう。

大量得点を生んだ2つの要因とは

 井上さんはこの試合を含めた1950年の得点増加について、主に2つのポイントを挙げてくれた。まず1つ目は1948年終盤から導入された「飛びやすいボール」の存在が、パ・リーグ発足の前年である1949年に本塁打の激増にも影響しているのではないかという点だ。

「1つが『ラビットボール』と呼ばれるボール。ボール自動製造機によって作られたボールで、それがよく飛んだようです。このほかに、大阪で製造された『タイガーボール』と呼ばれるボールもあったという記事も見られます。ラビットボールは主にセ・リーグで使われていて、タイガーボールは主にパ・リーグで使われていたという記述が残っています」

 歴代の本塁打王について振り返ってみると、1948年の本塁打王である川上哲治氏(巨人)が25本である一方で、翌年の本塁打王である藤村富美男氏(阪神)が48本と約2倍の成績を残している。そして、1950年のパ・リーグ初代本塁打王である別当薫氏(毎日)も43本塁打を放っている。こうした長打の増加は、そのまま得点の増加につながることは言うまでもない。

学校のグラウンドでプロ野球の試合!?

 2つ目のポイントは「球場の違い」だ。井上さんによれば、2020年と1950年では球場にも非常に大きな違いがあり、これも得点増加の要因となったのではないかとのことである。

「当時も今と遜色のないような規格の球場もありました。ただ、地方球場になるとやや規格が曖昧で、かなり狭い球場もありましたし、昔は学校のグラウンドで試合をすることもありました」

 現代でも球場ごとの特徴を示す指標であるパークファクター(PF)などによって、データ上でその違いが示されていることは事実だが、視覚的な部分ではその違いは見分けにくい。少なくとも、現代では学校のグラウンドでプロ野球の試合が行われる可能性はないだろう。加えて、こうした状況での試合開催ではこんなエピソードもあったようだ。

「高校のグラウンドで公式戦を開催し、外野とスタンドの境界に、フェンス代わりに縄を張って、それを超えたらホームランということがあったようです。その際、お客さんがその線を下に引っ張ってホームランにしてしまったというとんでもない話もある。なので、厳密な規格があったとは考えにくいですね」

現代のプロ野球につながる第一歩も

 さらに、試合に関する記事以外にも注目すべき部分はある。例えば、パ・リーグの後楽園球場での試合開催について。紙面右上の記事では、この開催の意図を「“サービス第一”をモットーに『自由定員制』を徹底、ファンの皆様に野球をエンジョイしてもらいたい」と説明している。井上さんによれば、「自由定員制」とはおそらく自由席のことであり、当時も内外野で座席を分け、バックネット裏には特別席を設けた上で案内係を配置するなどといったサービスも行われていたようだ。実際に、当時のポスターには、特別席、内野席、外野席の3種類の料金が記載されているとのことである。戦前から特別席の「指定席」はあったが、「自由席」を増やすことで、ファンに好みの席で見てもらいたいとの考えのようだ。

 我々の想像をはるかに超える違いがあった一方で、こうした違いはプロ野球、そしてパ・リーグが70年間の歩みの中で大きな変化を経験した一つの証拠でもあるはずだ。大きな変化を求められている今だからこそ、過去の紙面へ目を通してもらいたい。

 第4回でも、同じく1950年の特徴的な試合をピックアップしていく予定だ。

紙面提供・日刊スポーツ
取材協力・野球殿堂博物館
文・吉田貴

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