【日刊スポーツ×パ・リーグインサイト Vol.4】パ・リーグ創設初年度に起きた「放棄試合」の全容

2020-09-02 18:30 「パ・リーグ インサイト」吉田貴

 パ・リーグ創設70周年を記念してお送りする特別企画。日刊スポーツよりご提供いただいた紙面を参考に、全10回で当時のパ・リーグを振り返る。また、野球殿堂博物館の井上裕太学芸員より当時についての詳細な解説もいただいた。

 第3回では2020年現在でもNPBの記録として残る、両チーム合計最多得点を叩き出した試合について取り上げた。連載第4回目となった本記事では、当時のプロ野球の特徴が色濃く現れた一つの「事件」に注目する。

(C)日刊スポーツ

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2リーグ制導入後初の「放棄試合」が起きる

 1950年8月14日、県営富山球場で行われた南海対大映の試合で起こったのは2リーグ制導入後初となる「没収試合」だ。詳しくは記事の内容を見てもらいたいが、まずはその試合状況について簡単に触れておきたい。

 南海が2点をリードして迎えた9回裏、大映は代打の滝田選手の二塁打を皮切りに無死2,3塁と一打同点のチャンスを作ることに成功する。ここで打席に入ったのは代打・板倉選手。センターに大飛球を放つと、これを南海の中堅手である黒田選手が好捕したかに見えた。しかし、長谷川塁審は「セーフ」と判定し、打球は二塁打となった。

 これに対し、南海の山本一人(山本は旧姓。のち鶴岡)監督が猛抗議。長谷川塁審との「捕った、捕らない」の議論は約40分間にも及んだとのことである。この状況に対し、角田球審はプレーの再開を宣告。しかしながら、ベンチに引き揚げた南海ナインが再びグラウンドに戻ることはなかった。これを受けて、当時の野球規則によって没収試合が宣告されたのである。なお、正式試合として認められるイニング(5回)を経過していたため、個人記録は宣告時点のものを適用、試合結果は大映の勝利となった。

 記事内には両軍の指揮官と長谷川塁審のコメントも掲載されている。鶴岡監督は「黒田中堅手は完全にボールをつかんだ。私もそのプレーを見ており、審判の落球したという判定の説明が曖昧でどうにも従うことができず、我々はグラウンドを引き上げるほか道はなかった」とある。

 現在では「リクエスト 」などのリプレー検証の導入により、こうした抗議の可能性は低くなったと言えるかもしれない。だた、プレーが発生した時点で大映が返した得点は1点のみ。依然としてピンチではあったものの、試合に敗れるリスクを負って抗議をおこなった山本監督にはかなりの確信があったのではないだろうか。

猛抗議の背景にあったもの

 井上さんがまず触れたのは、この試合の詳細な状況だ。まずは、塁審の判定の曖昧さに問題があったようだ。

「中堅手がボールをキャッチする時によろめいたらしいのです。しかも砂埃が立っていたので審判からもよく見えなかった。そのため、最初にアウトのような仕草をした後にセーフへと訂正したようです。さらに、球審かあるいはお客さんの『こぼした!』というような会話を耳にした塁審が、訂正してセーフという判定を下した、という当時の記述も残っています。また、当時は現在のように審判の人数は4人で固定されていませんでした。この試合の審判の人数は3人で、球審と、1塁、3塁に塁審が2人。2塁、センター方向はいちばん手薄なエリアであり、鶴岡監督も別の記事で、『審判(塁審)は3人にすべき』と語っています」

 鶴岡監督も、後の資料では「審判が見るべき位置に行って確信のある判定を下せば、それに対して抗議は一応あったにしても放棄試合をするとまではならなかっただろう」とコメントしているとのことである。

 さらに井上さんが指摘したのは、鶴岡監督が「選手兼任」であったという点だ。70年前は戦後間もないということもあり、人材不足などの理由から選手兼任監督を置くことが少なくはなかったという。鶴岡一人監督という名前であれば、長年のファンであれば心当たりのある方もいるのではないだろうか。23年間にわたって南海の監督を務め、歴代最多の通算1773勝を記録(優勝11回・日本一3回)。勝率.609と驚異的な実績を残しており、まさにプロ野球の「監督」というポジションにおける伝説的存在だ。

「鶴岡さんは1952年まで選手兼任監督でしたので、1950年当時はまだ選手としてもプレーしており、この試合でも4番セカンドで出場していますね。それこそセカンドなので、センターがフライをキャッチするところはよく見えていたと思います」

 通常、監督と審判であれば後者の方がグラウンド内でのプレーを近くで見ることができる。ただ、監督が選手としてプレーに参加していたとなれば、より詳細な部分まで見えていた可能性は高い。こうした部分も、猛抗議につながった要因と言えるかもしれない。

 直近では2014年と2015年の谷繁元信氏(中日)が該当するとはいえ、平成で選手兼任監督を務めたのは2人のみ。加えて、4番スタメンとして出場したとなれば現在ではかなり珍しいケースと言えるだろう。ちなみに、鶴岡監督は選手として兼任監督期間で打点王を1回、MVPを3回獲得している。現在と環境の違いはあるとはいえ、プレーと采配の双方でチームを牽引していたと言えるだろう。

 第4回まではパシフィック・リーグの創設とその初年度の試合について辿ってきた。続く第5回では「1950年の日刊スポーツ」そのものに焦点を変え、70年前の新聞紙面上の特徴と、現在の紙面との違いについてそれぞれを比較していきたい。プロ野球の歴史とともに、それを伝えるスポーツメディアはどのように変化してきたのだろうか。

 なお、野球殿堂博物館では、9月8日(火)~12月20日(日)の期間、特集展示「鶴岡一人と南海ホークス」を開催する。この記事に登場した、鶴岡氏の選手・監督としての功績を振り返り、鶴岡氏の旧蔵品や、当時の選手たちに関する資料を紹介する内容なので、ぜひご覧いただきたい。

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