【日刊スポーツ×パ・リーグインサイト Vol.6】70年前の「パ・リーグ初代王者」がついに決定。優勝に貢献した主力選手にも注目!

2020-11-13 20:00 「パ・リーグ インサイト」吉田貴
(C)PLM

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 パ・リーグ創設70周年を記念してお送りする特別企画。日刊スポーツよりご提供いただいた紙面を参考に、全10回で当時のパ・リーグを振り返る。また、野球殿堂博物館の井上裕太学芸員より当時についての詳細な解説もいただいた。

 1950年、パシフィック・リーグ(太平洋野球連盟)として初のシーズンは、3月11日に幕を開けた。今季は特異な状況ではあるものの、その試合数は偶然にも今年と同じ120試合だった※。この連載もいよいよ後半戦に突入。6回目となった今回の記事では、パシフィック・リーグ優勝が決定した紙面を取り上げたい。

※1950年のパ・リーグは、3月11日~11月22日と長期間に及んでいた。移動に時間がかかったことや、ダブルヘッダーを組んだり、連戦になったり、逆に試合間隔が空いたりといった事情があってのこと。

パ・リーグ初代王者は毎日オリオンズ! 別当薫の本塁打の飛距離は……?

 詳しい内容は紙面を参考にしていただきたいが、簡単にリーグ優勝が決定した試合について見ていきたい。10月25日、リーグ優勝まであと1勝とした毎日は、東急との試合に4対2で勝利。シーズン終了まで10試合を残してのリーグ優勝となった。

 優勝チームらしく、その試合内容も盤石そのものだ。紙面には1回、3番・別当薫選手が中堅バックスクリーン410フィートに先制の39号ソロを放ったとある。410フィートは約125メートルであるため、現在の感覚でも特大の一発だったと言えるだろう。1回には続く4番・戸倉勝城選手から、土井垣武選手、本堂保次選手と中軸の3連打でさらに1点を追加。1点差に迫られるも、5回に本堂選手の2点適時打で突き放して試合を決めた。

 チームを率いた湯浅総監督が「優勝できて非常に嬉しい。前半は優勝などということを考えず一戦一戦を慎重に戦って意外の好成績を収め、南海を引きはなした」と語っている。紙面上の表を参考にしていただきたいが、シーズン前半の毎日は5月に驚異の勝率.882(15勝2敗)を記録するなど、「意外」と語るには圧倒的な成績だった。シーズン後半に入ってもその強さは健在で、優勝が決定した時点で73勝32敗5分、勝率.695でリーグ優勝を果たしている。

毎日の先発・榎原投手の好投が光る。敗れた東急の米川投手もレジェンドだった

 まずは、特大のホームランを放った別当選手に注目したい。NPB公式ホームページによれば、その体格は180センチ、75キロとのこと。当時としてはかなり恵まれた体格と言えるだろう。紙面左下にある本塁打王争いの表に注目すると、別当選手だけ本数を示す星が収まりきらず、表を取り囲む形で記されていることが分かる。この年は本塁打王(43本)と打点王(105打点)の2冠を獲得。1988年には殿堂入りも果たしている。

 記事では打線の活躍が注目されるが、毎日の先発・榎原投手も9回を2失点の好投で完投勝利を挙げている。東急打線には「青バットの大下」として当時の球界を代表する好打者である大下弘選手も名を連ねるが、この試合は4打数1安打に封じ込めている。シーズン単位で見ても、16勝7敗と大きく勝ち越している。

 ちなみに、敗れた東急・米川泰夫投手も大エースだ。チームは6位に沈んでしまったものの、58試合に登板して27完投、23勝23敗とこちらも規格外。現在のような継投策ではなく、先発完投が基本だったとはいえ、その投球回は驚異の363.2回だ。207個の三振を奪って最多奪三振のタイトルも獲得している。

当時は野手登板と、投手が打席に立つのは当たり前

 また、指名打者制が導入されたのは1975年であるため、この試合では榎原投手、米川投手ともに打者として1安打を放っている。井上さんによれば、指名打者制の導入以前はこうして投手が安打を放つことは珍しいことではなかったようだ。

「当時は、投手が9番以外の打順に入るのは、珍しいことではありませんでした。この試合では戦後5年経っていますけれども、戦後すぐの試合だと、選手が少なく野手が登板することもありました」

 今年は、巨人・増田大輝選手が野手登録ながらもマウンドに立ったことでも話題になった。また、「二刀流」の大谷翔平選手(エンゼルス)が渡米前最後の試合で「4番・投手」で出場したことも記憶に新しい。

南海は苦戦の背景には選手としての「山本一人監督」の存在が

 最後に、このシーズンで悔しい2位に終わった南海についても触れておきたい。翌年の1951年には72勝24敗8分でリーグ優勝を果たしており、勝率.750は今でも破られていないパ・リーグ歴代最高勝率だ。その中心は、山本(鶴岡)一人監督だ。第4回の連載では、猛抗議の末に「放棄試合」となった出来事について取り上げたが、打者としても本塁打王と打点王も獲得している。井上さんが注目したのは、この年の山本監督の動きだ。

「このシーズンはまだ兼任監督で、前半戦では選手ではなく監督に専念していた時期がありました。それも南海が優勝に及ばなかった原因の一つだったんじゃないかという当時の記述もありました。翌年からは再び選手としても出るようになって、MVPも獲得されている。シーズン前の予想だと毎日か南海かという報道で、結果としてこの2チームが上位2チームにはなりましたが、こうした背景もあって1位と2位の間でこれだけ差が開いてしまった」

 1950年は2位だったものの、翌年以降はまさに南海の黄金時代と言っていいだろう。1951年にリーグ優勝して以降、1966年までで9度のリーグ優勝を果たしている。山本監督が、「山本一人選手」の抜けた穴をその手腕で見事に埋めた結果と言えるだろう。

リーグ王者が向かったのはプロ野球史上初の「日本シリーズ」

 強敵・南海を退けてパ・リーグ初代王者となった毎日。その先に待つのはセ・リーグ王者との「日本シリーズ」だ。2リーグ制となったのはこの1950年であるため、必然的に史上初の日本シリーズとなる。第7回の記事では、激闘の末に日本一が決定した試合について取り上げたい。

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