千葉ロッテ福浦 福山雅治モノマネから2000本安打までの軌跡

2018-09-25 12:00 「パ・リーグ インサイト」マリーンズ球団広報 梶原紀章

一瞬、時が止まった。3万19人の大観衆が息を吞む。鋭い打球が芝の上で跳ねたのを確認するとスタンドは総立ちとなった。大歓声に包まれながら背番号「9」は一塁を蹴って、二塁に向かう。一塁をまわった時の表情は少し笑っているように見えた。二塁に到達するとガッツポーズを見せた。

9月22日のライオンズ戦(ZOZOマリンスタジアム)。千葉ロッテマリーンズの福浦和也内野手が史上52人目の通算2000安打を記録した。25年の歳月をかけてたどり着いた。1500安打を記録してからは9年の月日を要した。ようやく達成した偉業に、普段は表情を変えない男もさすがに笑顔だった。

「時間がかかってしまったね。もっと早く到達しないといけなかった。でも本当にZOZOマリンスタジアムで達成できて良かった。千葉で生まれ、千葉の学校に行って千葉の球団に入団させてもらった自分としては最高の形となった。なによりも本当に多くのファンの方に来ていただいた。それがうれしかった」

これまで派手とは無縁の人生だった。93年ドラフトは64人中の64番目の指名。12球団で最後の指名選手だった。「スカウトの方は見に来てくれていたけど、指名されるかどうかは分からなかった」と当時を振り返る。

だからドラフトの日は会見場で報道陣と一緒に指名を待つ通常のスタイルではなく、グラウンドで練習をしていた。学校関係者から指名を伝えられた時は実感が湧かなかった。

周りからは「千葉の球団として最後にとりあえず千葉の選手を取っておこうという事になったのかもね。ロッテが千葉に来ていなかったら指名されていないかもしれないよ」と言われたこともある。自分自身もそれに異論はなかった。

「92年にロッテが千葉に移転をした。移転2年目のドラフト。もしだけど、移転があと数年遅かったらプロに入っていなかったかもなあと思う事もある。今頃なにをしていたかね。そういう意味では本当に千葉の人間として千葉の球団に拾ってもらえたという想いがある」

もし指名をされなかった場合の進路は…

指名をされなければ静岡の社会人野球チームに進み、野球を続けることは決まっていた。ただそのチームは2年後に廃部。野球人生はどこで終わっていてもおかしくはなかった。

背番号は支配下選手最大の「70」。アリゾナでの春季キャンプでは選手で唯一、チームスタッフとの同部屋待遇。それらすべてが置かれている状況の厳しさを示していた。

のちに2000安打を達成することになるその若者の思い出を当時の選手たちに聞くと「福山雅治さんのモノマネが上手かったことしか記憶にない」と言われるほどである。

「キャンプのホテルで先輩の部屋に呼ばれて、『なにか面白い事をやってみろよ』と言われると、よく福山雅治さんの真似をしていたね。カラオケでも基本、福山雅治さん。最初にモノマネをしてから歌う。そのうちに先輩たちから『おい、いつものやってくれよ!』と言われるようになっていた」

同じ「福」から始まる名字ということもあり福浦イコール福山雅治の真似をする若手。当時の千葉ロッテマリーンズではそれが定着していた。スワローズから移籍してきた内藤尚行氏(現野球解説者)も移籍してすぐに、若者の一発芸を目にした。「ギャオス内藤」の異名で知られ、スワローズ時代に一世を風靡したキャラの立つベテランも大ウケとなった。

その記憶は鮮明に残りその年のシーズンオフに内藤氏は知人のマスコミ関係者を通じて、福山雅治さんのラジオ番組の見学をセッティングしてくれた。先輩たちへのモノマネがキッカケで本人に面会する機会が実現することになるとは思ってもいなかった。

「福山さんは絶対に覚えていないよ。名も知らない若いプロ野球選手が見学に来て、『ファンです』と挨拶をさせてもらっただけだから。でもうれしかったなあ」